ツゲの木製 木床義歯    文明開化が進み消滅


 復元されたレトロ調の坊っちゃん列車が、松山市内をのどかに走っています。

わが国初の軽便鉄道が松山―三津浜間に開通したのは、1888年(明治21年)。ドイツ製の蒸気機関車は、文明開化のシンボルでした。

 では、その頃の入れ歯事情はどうだったのでしょうか。 1890年(明治23年)発行の『東京買物獨案内』、今でいうショッピングガイドには、「皇国入歯」と「西洋義歯」という言葉が載っています。皇国入歯とは、ツゲの木を彫刻して作る木床義歯のこと。西洋義歯とは、欧米に学んだゴム床義歯のことです。明治中頃には、和式と洋式の二種類の入れ歯が混在していました。

 木床義歯の製作技術が完成したのは、12世紀前後までさかのぼるようです。

仏像彫刻に従事していた仏師が、内職で作っていたといわれています。
現存する最古の木床義歯は、1538年(天文7年)、和歌山願成寺の尼僧佛姫の上顎総入れ歯です。
現在の義歯と同様に、粘膜への吸着作用により維持安定を求めています。

 室町末期から江戸初期にかけて、木床義歯を作る専門技能集団が組織され、江戸中期頃には全国に広まりました。製作法の記録は残っていません。徒弟制により代々受け継がれていったのでしょう。
 木床義歯は、ツゲの木を彫刻した床の部分と、あらかじめ彫っている人工の部分とで成立っています。前歯に象牙、貝殻、獣骨を使用したものは高級品だったようです。その人工歯を木床の定位置にはめ込み、三味線糸で結んでいます。臼歯には摩滅を防ぎ、咬合力を高めるために、咬合面に短い釘を打っています。審美性と機能性をそれなりによく考えた合理的な構造です。

 木床義歯の価格ですが、1分(1両の4分の1)で独身者が1ヵ月生活できた時代に、上下の総入れ歯が3両でした。金持ちでなければとうてい作ることができません。本居宣長は、入れ歯の具合がよく、喜びの歌を詠んでいます。
「思いきや老のくち木に春過ぎてかかる若葉の又おひんとは」。杉田玄白は、具合いがよくなく、不満を書き残しています。いつの世も、入れ歯は難しいもののようです。
 この木床義歯がいつまで作り続けられたか定かでありません。歯科医師免許制度が確立し、文明開化が進むにつれ消えていきました。

 西洋義歯の方も、1867年にグッドイヤー歯科用硬化ゴム会社が発売した蒸和ゴムから、1937年、アクリルレジン床へ変わりました。近年は多様なエンジニアリングプラスチックが登場し、金属床ではチタン合金も使用されています。

 昔と今とでは、義歯を作る材料が大きく変わりました。しかし、昔も今も、義歯は一つ一つ手作りであることは変わりません。

平成14年9月16日(月)
愛媛新聞生活欄16面掲載